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 2012年1月からインドネシアから横浜に本帰国して暮らしています。パパ、小4のハル10歳、小2のネネ8歳、ナナ6歳の5人家族です。  04年から07年まで過ごしたケニア・ナイロビ生活、08年から11年末ジャカルタ生活。  ポレポレ&ティダ・アパアパに生活しています。                                        『記事のタイトルをクリックして、コメントを送っていただけたら、嬉しいです』
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 普段、日本人学校へのバスが朝6時台なので、いつも5時半に起きている子供達は、日曜日でもついつい習慣で朝6時ごろには目を覚まします。

 早朝からテレビでニコロデオンを観て、みんなでモノポリーしたりと部屋の中ですごしたら、もうお昼の時間です!今日は夫がお昼過ぎに仕事で車を使うと言うので、外出もできません。

 と言うわけで、「ちょこっとイベント」として、餃子作りを手伝ってもらいました。

 餃子を作るとなると、張り切って思い思いの形に作る子どもたちです。餃子の皮が足りないから、ちょっとそこまで買ってきてーと言えない環境なので、無駄にはできません。子供達にばれない程度に、不細工餃子を修正するのに大忙しです。

 餃子作りで、楽しんでもらえたかな・・・と思ったのは私だけ?長女のネネ5才が「今日は全然お外に出なかったね」とつぶやいていました。
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 土日になると、退屈する子供達をどうやって満足させるか・・・が親にとって、悩みどころです。
 日本に住んでいた頃は、小学生の長男ハルの場合、自分で友達と約束を取り付けて、朝から出かけて行くのが習慣だったのですが、ジャカルタの住環境ですと、同じアパートメント内に住む、限られたお友達と遊ぶしかありません。(ここのアパートには日本人の小学三年生の男の子が2人いらして、とてもお世話になっています。)
 クラスで気の合うお友達と遊ぶとなると、まず運転手さんに出勤してもらい、親と一緒にお友達のお宅にお邪魔するか、こちらにお誘いするかと言った、少々複雑なことになるのです。

 こういったことは、ケニアの住環境と同じなので、抵抗なく受け入れられたのですが、幼かった子供達が今や成長して、アパート敷地内だけで遊ぶだけでは限度があるな・・・と思うようになりました。

 写真は土曜日、アパート内の子供プールで遊ぶ3人兄妹です。白砂の人工ビーチがここの「売り」らしいです。他に大人用のプールが2つあり、プール以外にも、敷地内で十分過ごせる設備が整っています。こういった贅沢な設備がほとんどの外国人用のアパートに備わっているのも、この住環境には欠かせないものだからなのでしょう。

 兄妹で遊ぶ機会が多くなり、兄妹愛は深まるかも知れないけど、同世代のお友達といつでも自由に遊べないなんて、可哀想・・・と、ぼんやりと3人を眺めながら思いました。日本人以外の子供達とも遊べばいいのでしょうが、兄妹がいると、やっぱり気楽な3人だけで遊んでいるのです。

 少しずつ、外国人の同世代の子供とも顔見知りになって、仲良くなっていって欲しいです。
 あとは、幸いにも、ジャカルタには日本人小学校と日本人幼稚園があるのだから、学校で思いっきり遊んできてもらうしかないですね。


 イスラム教の祝日で、裕福な住民からの寄付などによって集められた、生きたヤギや牛を解体して貧しい人々に肉を分け合うお祭りです。月の満ち欠けの観測に基づいて毎年の日にちを決定しているそうです。
 今年は12月8日月曜日に犠牲祭が行われました。
犠牲祭の日は学校も会社もお休み、新聞もお休みになります。ちなみに、お手伝いさんのムナさんもお休みです。
 一体どんな騒ぎになるのかな・・・とはじめての犠牲祭に不安を持ちながらの前夜、夜8時頃、近所のモスクからスピーカーで大音響のお祈りの声が始まり、なんと朝まで続きました。
特徴的なお祈りは、日本の「いーし焼き芋~♪」の調子と少し似ています。意味は分からないものの、想像を膨らませて聞いていますと、お祈りの声が交代したりしていることもあって、今度の人はさっきの人より上手いな、なんて楽しくなってきました。じっと耳を澄ますと遠くの複数のモスクからのお祈りの声が混ざり合って「あー私って異国にいるんだな・・・」と再確認した、正直なところ少し耳障りで、それでも幻想的な夜でした。
 意外にも祭り当日は、前夜のような大きなお祈りの声が響き渡ることもなく、静かなものでした。

 地元のニュースによると、私達の住むカサブランカ地区に犠牲祭のために用意した牛が逃げ出したそうです。大混乱の中、女性一人がケガをしたということです。
 目の前で次々と解体される、仲間たち(生きたヤギや牛)を見ながら、大勢の住民が集まる中で必死に逃亡を決行した牛さんの果敢な勇気に感動したのは私だけでしょうか。叶うことなら、その牛さん、チャレンジ精神を称えて解体を免れてたらいいな。

 でも、やっぱり無理でしょうね・・・。

 注:写真は寝室から見える、アパート横の民家。外国人向けの高層アパートのすぐ横にトタン屋根の家々が並びます。我が家からは、この方向のモスクが一番近いようです。


namu

 3才3カ月になる末っ子ナナは、今でもおっぱいを見るとにんまり。ヒナ鳥のように口をとがらせて近づいてくる甘えん坊です。

 そのナナは長男ハルと長女ネネが小学校と幼稚園に行くと、大好きなお手伝いさんのムナさんを追っかけては、インドネシア語しか話せないムナさんに日本語でしつこく話しかけ、不思議とコミュニケーションが成り立っています。最近は私が出掛ける時も「ムナちゃんが行かないなら、ナナも行かな~い」と言って、お留守番もするようになりました。

 先日ナナに、「今日はムナさんと何してたの?」と聞くと、「ムナちゃんのおっぱい飲んだー」と言うのです。
「え~~っ!」驚いた私に気を使ってか、「やっぱり、おっぱい飲んでない」と目をそむけて訂正したので、「でも、ちょっとは飲んだの?」「うん、やっぱ、飲んだ」とナナ。
「ひ~~っ!ナナちゃん、おっぱいはママのしか飲んじゃ駄目だよ、ナナのママは誰なの?」と、とくとくと説明したのですが、どこまで解ってくれたか自信がありません。(ちなみにムナさん47歳)

 聞いているのかいないのかすら、さっぱり分からないナナ。私が必死に説明していると、ハルが「ナナちゃんは、ケニアの時もマーガレットのおっぱい飲んでたよねー」と言ったのです。
「え~~~~~~っ!大大大ショック~!」そう言えば、ケニアでのお手伝いさんマーガレット(当時41歳)はベィビーだったナナを抱いて散歩に出掛けては、あっという間に熟睡させて戻ってきていました・・・そして、時々胸元がはだけてたことも・・・確かにありました・・・。

 う~ん、衝撃の事実二連発。ナナの乳兄弟は世界中に一体何人できるのでしょう。
 我が家のお手伝いさんのムナさんは、きれいに家中をお掃除してくれています。

 私が初日にお願いしたことは、、「石鹸できれいに手を洗って欲しい」、「テーブル用の布巾と床用の雑巾はちゃんと区別して欲しい」と、この2点でした。
 ケニア人もそうなのですが、子供の頃から手洗いの習慣がないので、立派な大人に向かって手洗い手洗いとしつこくお願いしても、なかなか浸透しないのです。そして、イスラム教でもある彼女はトイレの後は左手で水洗いするのが当たり前なので、その点も気になっていたのです。
 
 ある日、私がキッチンに入った時です。暗いキッチンの奥でムナさんが、食器を拭くための布巾で顔の汗を拭いていたのです!「あっ!」と思ったのは私だけで、ムナさんは「暑いわね~」っという、普段の笑顔。
 気まずい気持ちは私だけだったのですが、注意もできず、自分で布巾を洗う始末でした(情けない・・・)。

 それからすぐにまた、キッチンでシンク下の排水管のカビ汚れを台布巾で拭いている姿を目撃!!「ああっ~!」さすがにその場で注意して、テーブル用の布巾は床用の雑巾へ格下げとなったのでした。

 ケニアの時も、日本人家庭で約10年働いてきたお手伝いさんのマーガレットでも、たびたび雑巾と布巾を混用することがありました。それでも何度か言っているうちに分かってくれて、自分で古くなった食器拭きをテーブル用の布巾へと格下げもできるようになったものです。
 大きな期待はしないで、すべてはプランプランですね。

(プランプラン→インドネシア語でゆっくりという意味。これも、ケニアのスワヒリ語でポレポレと似ているから可笑しいです)
 
 今日からお手伝いさんがやってきました。
 スラバヤ出身のムナさん47才。
 大きな口を開けて笑う、明るい女性です。

 我が家のように小さな子供がいる家庭では、比較的若いお手伝いさんの方が体力があって良いとか、年配のお手伝いさんだと家の中を仕切ってしまい、奥さん(私のこと)がやりづらいとのアドバイスがありました。
でも、昨日面接をしてみて、落ち着いた雰囲気と明るい笑顔の彼女にお願いしてみようと思ったのです。

 まずはお試し期間3カ月(チョバといいます)を経て、本採用です。通いと住み込みがあるのですが、まずは通いでお願いすることにしました。
 家の中に地元の人がいる感覚はケニアの生活を思い出し、やっと生活がスタートしたなといった、ワクワク感があります。

 私がまだインドネシア語を全然話せないので、当面は会話本を片手に、ジェスチャーを駆使してのコミュニケーションを取るしかありません。 ここはインドネシアなのだから、私がインドネシア語をマスターしてお互い心地よい関係が取れるようになるといいなと願います。
  
 とうとうケニアを旅立つ日がやってきました。
生まれた環境も国籍も違う私達がこうして出会ったのは、運命だったのでしょうか…
「また、ケニアに戻ってきてね」という言葉は、温かくて優しい彼らの気持ちからの言葉の反面、『私たちは一生ケニアから出ることはないだろう。 ずっとこの生活を続けていくだけなのさ…』 といったような、少し物悲しい響きが感じられたのは、私だけでしょうか。

 お別れの時には、ちゃんとお礼の言葉をいわなくては…。

 私は事前に英語辞書を駆使して練習していたのですが、一人一人と握手をしてお別れするときには、胸がいっぱいになって、目を見るのが精一杯でした。
 残念ながら口から出ることはすべて日本語でした。 今までの感謝の気持ちと、心配な彼らのこれからのこと、言いたいことはたくさんあったのですが、私の気持ちはどれだけ伝わったことでしょう。

 日本のような忙しい国に帰りたくないなんて、私は身勝手なことを言っていたと思います。 人生に前向きになること、未来を夢見る気持ちの違いを、途方もなく感じられました。

『アフリカの水を飲んだものは、必ず再びアフリカを訪れる』ということわざがあります。

 人類発祥の地、アフリカは私達家族の第二のふるさとになりました。
 ケニアの在住日本人は、わずか750人程度と言われています。より充実した生活をエンジョイするために、日本人のお友達は心の支えでもあり、かけがえのない存在でした。

 国連や大使館、JICAや海外青年協力隊、商社などのほか、日本のNGO関係者など、様々な人達が住んでいますが、その多くは、大体2年や3年間といった具合で赴任しています。

 この広い世界中で同じ日本人ながら、日本でばったり出会うこともなかった人たち。ケニアで同じ時期に過ごすことができたのも、何かのご縁だったに違いありません。
 
 狭い日本人社会ならでは、世代を超え立場もこだわらずにみんなで危険情報を交換し合い、古い日本のビデオや日本製の子供服(特に靴などはとても嬉しいものでした。)やおもちゃなどを譲り合ったり、また、貴重な日本食材を分け合ったり、帰国する人や先進国に旅行する方に日本食を買ってきてもらったりとずいぶん助け合いました。

 ケニアにはNGOの日本人が活躍しています。 エイズ患者を無料で診察し治療をする診療所を運営してらっしゃる方、孤児院で日本人好みの野菜を作ることを教え、日本人会でそれを販売し、その収益を孤児院の子供たちの生活費や、学費にあてている方、また、長男ハルと長女ネネがお世話になったキューナ幼稚園のようにインターナショナル幼稚園を経営しながら、その収益でスラムの幼稚園を破格の授業料で運営するなど…。
 
 世の中には偉い方がいらっしゃるものだと、そういった方々に出会いお話を伺う機会がある度に、無力な自分を思い私は大きくため息をついたものでした。

 その活動がケニア人にもよく伝わっていたのか、ケニア人はとても親日的だったように感じます。 

 私にとって、海外生活はケニアが初めてで、英語もかたこと、現地のスワヒリ語も当然話せませんでしたので、ケニアに詳しい奥さん達や海外生活が豊富な奥さん達からケニアでいかに楽しく生活するかを教えてもらいました。

 3年の間ケニアに住んでいて、何組ものご家族とお別れしました。 日本に帰る方々や他の国にスライドする方々… 世界中を渡り歩き、出会いの数も半端じゃないはずです。 いつかお別れする関係だからと、ドライになる人もいるようですが、私はこんな運命的な出会いをした私達ですから、どんなに離れていても、いつか必ずどこかで出会える気がしてなりません。 世界は狭し…必ず再会しましょうね。 

 ケニアで危険に巻き込まれることもなく、生活を楽しめたのは、「同期のママ友達」がいたからこそです。
 本当にありがとうございました。 そして、皆様もどうぞ、安全に任期まで楽しく過ごされますように。

 一足早く日本でお待ちしております。

  
 帰国直前まで、ずっと気になり続け、どうしても会いたかった人がいました。 妊娠9ヶ月まで我が家で働いてくれて、今年の春、出産を期に仕事を辞めたお手伝いさんの1人、ベティです。

 辞めた後の4月、彼女から携帯メールが届きました。

 意外かもしれませんが、ナイロビに住む多くのケニア人は今、携帯電話を持っています。2000年ごろから携帯電話本体の料金が次第に安くなり始めたからだそうです。

 知人は、ライオンを素手で倒すことで有名なマサイ族の人々も最近、命の次に大事なはずの牛を売って、携帯電話を買っているんだって、と話していました。

 プリペイド式なので、みんな、わずかな金額の通話用スクラッチカードを購入しています。でも、通話料を惜しんで、自分の用事がある時でも相手に電話をかけてワン切りし、相手からかけ直してもらうか、メールで用事を済ますのが通常です。

 メールはいいのですが、ワン切りは最初すご~く、腹が立ちました。放っておくと、何度もワン切り電話がかかってくるのです。 電話をかけろ、電話かけろって感じで(苦笑)。 こっちは忙しいのに、なんで、私には用もないのに、電話をかけるのを「強制」されないといけないのよ!あなたの用事じゃないの!とか思ってムッとしていました。でも次第に、こういうことにも慣れてきますから不思議です(笑)。

 それはさておき、ベティの携帯メールには、
“Hi mum,I delivered a baby girl last night.Her name is Lexie.Say hi to Haru Nene Nana & Papa”(ハイ、ママ。昨晩女の子の赤ちゃんを授かりました。レクシーと名付けたの。ハル、ネネ、ナナとパパにもよろしく伝えてくださいね)

と書いてありました。私はすぐにベティに電話をかけました。 「ベティ、あなた元気なの?実は、私たち、日本に帰ることになったのよ。 できたら、子供たちに会いに来て欲しいの。 ハルもネネもナナも、マーガレットもシープローズもみんな、あなたとレクシーに会いたいと思っているのよ」
ベティは、私達家族の帰国の知らせに、かなりショックを受けた様子でした。 子供を産んで一段落したら、また我が家で働くつもりでいたようでしたし・・・。 それでも、出国の前日になって、我が家までレクシを連れて、店に来てくれました。

 久しぶりの再会でした。ベティは元気そうな様子で、ホッとしました。 レクシーは写真のように、目が大きくて、すごく可愛らしい顔をした赤ちゃんでした。  長男ハルと長女ネネは、ベティとその赤ちゃんの突然の登場に驚き、大喜びしました。 すでに5人の子供がいるベテランお手伝いさんのマーガレットも、レクシーを抱っこしつつ、目を細めて「私は赤ちゃんが大好きよ。 許されるなら、何人でも産みたいわ」 と言っていました。  

 みんなでわいわい楽しんだ後、ベティは小さな声で「お金がないので、まだ田舎の親に赤ちゃんを見せてない」と言いました。 そうかもなぁ、と私は思いつつ、用意していた子供達のおさがり服、彼女との思い出の写真アルバム、そしてお祝い金を手渡しました。 彼女は喜んでいました。

 彼女の夫は定期収入がないみたいだし、ベティ達はこれからどうやって暮らしていくのだろう・・・と私は不安に駆られましたが、下手な同情は禁物ですし、口をつぐんでしまいました。

 ケニアの普通の人々の暮らしぶりというのは、私たちのように実際、現地に何年も住んでいる外国人ですら、なかなか伺い知れないものがありますが、でも、貧しい中、みんな、たくましく生き抜いています。

 頑張ってね、新米ママ、ベティ
  6月末、ケニアを出発する当日まで、子供たちは幼稚園に通っていました。 インターナショナル幼稚園の「キューナ幼稚園」は、長男ハルと長女ネネにとって、初めての幼稚園でした。 3年前、登園初めには、言葉の壁にぶつかって悩みました。 

 親がどうすることもできず、子供たち自身がそれを乗り越えて自分の居場所を確立していった、最も思い出深い場所です。 

 通園最後の日、朝のアセンブリー(礼拝)で、ハルとネネに対し、クラスのお友達がメッセージを書いたプレゼントがありました。 園長先生からは「ハルとネネは日本という国に帰るんだよ」という話があり、園児たちは真面目な顔で話を聞いていました。 ハルは「日本に帰ることは楽しみだ」と英語でみんなの前で堂々と話していました。

 英国式のシステムなので、今年の9月からハルのクラスは小学生になります。 そのため、残り一週間ほどで卒園式を迎える6月末、ハルやネネは、一足先に、みんなとお別れとなった訳です。

 たった2人だけの卒園式のような雰囲気の中、私は3年前に「幼稚園に行きたくない」と大泣きして暴れるハルを抱えて幼稚園まで何度も来たことや、園長先生に言葉の問題などで何度も相談したり、激励してもらったりしたことを思い出して、お別れ会の様子をビデオで撮りながら、自然と涙が流れていました。

 最後のランチをすませ、ハルとネネは担任のミセス・ンジャウとミセス・モマニに大きなハグをしてもらい、お別れしました。 

 ハルのお友達のコンゴ人のサミーのお母さんによると、サミーは「ハルヒコがいなくなったら、寂しくて死んじゃうよー」と地団駄を踏んで悔しそうにしていたそうです。 有り難うね、サミー。

 頻繁にお泊まりをし合い、大の仲良しだったオーストリア人のイマヌエルからは「ハルヒコ、最後の夜はぜったい僕のうちに泊まりにきて」とお誘いもありました。イマヌエル、有り難うね。 

 ハル、ネネの2人は日本に帰国した今でも、キューナ幼稚園の思い出をよく話します。 

 ハルは「僕がフットボールをしてる時、(幼稚園のスタッフの)ミスター・ムイッティーが、Hi !Haru って呼ぶから、ミスしたんだよ~」などと昔の思い出を悔しそうに今でも語ったりします。

 ネネは「(クラスの問題児?だった)ダンテはお利口にしてるかなあ?」とか、おませなことを言ってみたり、お友達のナディアのドレスはすごく可愛かったなあ、とか言ってみたり。 突然、「ケニアの幼稚園に行きたいよ」とも言い出したりします。

 ケニアへ行ったとき、3才だったハルは今、6歳に。 まだ、1才2ヶ月でハイハイしていたネネは4歳に。 そして生まれていなかったナナは2才になりました。 

 違う言葉や、違う文化・習慣の集団に溶け込むまで、彼らなりに、本当に大きな葛藤があったことは違いありません。 よく日本では「子供はすぐ外国の環境に順応する」とかよく言われますが、とても、そうは思えません。

 子供だって苦労がないはずがありません。 ケニアでの生活で、子供たちは人生のスタート地点で早くも何か1つの山を乗り越えてくれたのかもしれません。  
  お知らせが遅れましたが、3年半にわたる夫の赴任が終わり、6月末に帰国しました。 もともと、永住する予定ではなかったので、当然、心の準備があったはずなのに、ケニアの不思議と居心地の良い雰囲気や、お世話になった人たちとお別れするのが寂しくて寂しくて仕方ありませんでした。

   帰国前後はバタバタしていて、このブログを更新する余裕がありませんでした。でも今は、子供たちも日本で幼稚園に通い始め、やっと生活が落ち着き始めましたので、少しだけ書き残したナイロビの思い出話を記そうと思います。

 最後まで心配したのは、若いお手伝いさんのシープローズの再就職先でした。 夫の後任の方が、もう1人のベテランお手伝いさんのマーガレットと, ドライバーのモリスは引き続き雇ってくれることになったので、一安心しましたが、問題はシープローズです。 後任の方は独身で、2人もお手伝いさんは必要なく、何とかシープローズの再雇用先を探さなくてはいけません。

 ナイロビ在住の日本人の方々に声かけし、日本人会のメール網にも「お手伝いさんご紹介します」とのメールを出しましたが、なかなか、うまく行きません。 大体、すでに1人か2人雇っている人が多くて、なかなか「空き」が見つかりません。

 「大丈夫よ、私達があなたの雇い先を見つけて、きちんと引き継ぐから心配しないで」と彼女に言ってきた手前、「見つからなかったわ。ごめんね」ではすみません。何としても見つけなくては…。

 ある日、ケニア西部の地方に在住している日本人の方から、お手伝いさんを探していると連絡が入り、大喜びしました。 ところが、肝心のシープローズが「ナイロビを離れたくない」と断るので、もうガッカリです。 夫は「最初はどこでも行くって言ってたのに…」と少し不満な様子でしたが、両親を早くに失った彼女は、兄や弟と離れて暮らしたくなかったのかもしれません。
 
 こうなったら日本人家庭でなくてもいいので何とか見つけようと、ハルとネネが通う幼稚園の外国人ママたちにも声をかけたりし始めましたが、子守専門のお手伝いさんだと難しいものがあります。

 ナイロビのお手伝いさんの中には何年も外国人家庭を渡り歩いて、外国人好みの料理をつくれる人も多いので、多くの人が「料理も多少できて、子守もできるお手伝いさん」を希望していました。

 なかなかうまく行かず、焦りがでてきた時、日本人のあるご家庭の奥さんから声をかけてもらい、面接してもらえることになりました。

 そのご家庭には3歳になる女の子が1人いて、他に年配のお手伝いさんが1人いるのですが、若くて子供専用のお手伝いさんをちょうど探していたというのでした。 日本人に合う料理をまだ勉強していないシープローズには、まさにうってつけの条件です!

 面接の結果、シープローズはそのお宅で雇っていただけることになりました。

 我が家の引越し作業を手伝いながらも、自分だけ再就職先がまだ決まらない間、浮かない表情だった彼女も次の仕事先が決まってからは、ほっと落ち着いた様子でした。 もっと感情を表に出してもいいのにと思うのですが、シープローズはいつものように静かに「Thank you」と一言、言うだけでした。 まだ若いのに、どこか、人生をあきらめたところがあるような寂しさがあるのでした。

 それでも、とにかく、ほっとしました。 シープローズ本人だけでなく、もう1人のお手伝いさんのマーガレット、ドライバーのモリスも喜んでいました。 このお引越しで最も大きな懸案事項が片付いた瞬間でした。

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 子供の子守をしてもらっているお手伝いさんのシープローズ(22才)は10カ月前、我が家にやってきました。

 両親を早くに亡くした彼女には、無職の兄と中学生の弟2人がいます。 彼女がナイロビ市内の親せきの家に住んで働き、田舎に住んでいる弟達へ学費を送っています。

 10カ月前、初めて我が家に現れた彼女は、声も小さくて、少しビクビクして暗い雰囲気でした。 「外国人の家で働くのが初めてなので、はじめ緊張しているのかな?」。 私は気にしていなかったのですが、そんな彼女の暗い様子は意外にも長~く続きました。

 声をかけても、うつむき加減に低い声で短く返事するだけの彼女をみて、「両親を亡くして苦労したため、性格まで暗くなったのかね」と夫も私も心配していました。 

 子守の仕事は暗い性格の彼女には不向きにも思えたのですが、とても真面目に働き、信頼できるので、続けてもらっていました。 

 そんな彼女も最近、やっと明るい性格を見せ始め、はじけるような笑顔を見せてくれるようになりました。

 毎日、やんちゃハル6歳、おしゃまなネネ4歳、1歳9カ月のナナに付き合わされてきたせいかもねえ、と夫婦で、ホッと胸をなでおろしています。
 
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 我が家の末娘ナナは1歳9カ月になりますが、今も眠くなると、おっぱいを欲しがります。 ご飯も食べるので、おっぱいは精神安定剤のようなものなのです。

 ナナは、お手伝いさんのマーガレットにすごくなついています。 いつも、べったりなのですが、眠くなると、おっぱいを欲しがって、私の方に泣きながらヒョコヒョコやってきます。

 そんなナナを見送るマーガレットの流し目は、いつも少し不満そうな色をたたえている、と思うのは、私の気のせいでしょうか(苦笑)。

 ある日、いつものようにナナに授乳していると、マーガレットは突然「あなたのミルクは、まだフレッシュ(新鮮)なの?」と尋ねてきました。

  え、フレッシュって? 

 まさか、おっぱいが古くなって腐るなんてこと、ある訳ないじゃない! 失礼な! 「おっぱいの出る量は減ってるけど、まだ、フレッシュなはずよ」と答えましたが、5人の子を産み育てた彼女が納得したかどうか自信はありません。

 一般に、ケニア人などアフリカ人の離乳はすごく早いと言われます。 2ー3カ月という話もよく聞きます。 

 母親の栄養状態が悪くて、母乳が出ないから、という話があります。また、早く離乳して、次の妊娠の準備をするため、という話も聞きました。授乳している間は、次の子ができないと信じているみたいです。 一夫多妻なので、子供が少ない妻は肩身が狭いのかもしれません。

 離乳の早いせいで、生後2カ月の赤ちゃんにコカ・コーラを飲ませたり、ケニア人の主食ウガリ(白トウモロコシの粉を練ったもの)を食べさせたりすることもあるそうです。

 離乳があまりに早いのはよくない、と私は日本で聞いた記憶があります。 まだ胃袋が完全でない状態で離乳食を強いると、赤ちゃんに負担がかかり、抵抗力が弱く育つとか。

 国連も、アフリカのママたちに、できるだけ長く授乳するよう勧めているそうなのです。でも、「おっぱいが古くなる」という考えがママたちの間にあるかもしれないことも国連の人たちは知っているのかなあ?? と今、ふっと、疑問に思いました。

 11日(月)の朝、夫や私の友人らから相次いで電話がありました。 「今さっき、タウンのホテルで爆発があったって…街が大騒ぎになってる」

 慌てて、地元テレビをチェックすると、そこには、日本では絶対あり得ないような、生々しい現場の様子が映し出されていました。

 夫の会社から200メートルぐらい離れただけの爆発の現場の店の前には、茶色の胴体が転がっています。赤い血液も流れていました。 テレビの映像に釘付けになっていた、お手伝いさんのマーガレットは「あの茶色いのは、Dog(犬) かしら?」と聞くので、私は「多分、Human-being だと思うよ」と答えました。 

 ケニアの警察は現場保存のため、死体をすぐには移動させたりしません。遺体はしばらく同じ場所に放置されていました。テレビでは、警察が遺体をまたいで店の方に入っていく様子が放映され、周囲に大勢の人だかりもできていて、混乱が混乱を呼んでいるような大騒ぎでした。

 ケニアらしく、事件についての情報はすごく錯綜しました。現場も結局、有名ホテルではなく、地元の3流ホテルに近い地元レストランでしたし…。

 また、死者数も、1名、2名、5名と、いろいろありました。 犯人像に関しても、ソマリア系の男だったとか、自爆テロだったとか、バスに乗ろうとして乗車拒否されたとか、トヨタに乗って現場に来た、とか、いろんな目撃情報が出ましたが、どれが本当なのか全く分かりません。

 「いったい、本当になんなのよ?」と怒りたくなりました!

 その後、なるべく外出は避けるように、と在ナイロビ日本大使館から日本人会に警告メールが届きました。

 事件の真相は依然よくわかりませんが、どうも自爆テロではないみたいです。 爆弾も小型で、手榴弾ぐらいのものだったようです。 

 死者数も1人で、負傷者は40人近くだそうです。 実行犯は男2名で、まだ逃走中だとか。 空港行きのバスに乗ろうとして、不審な様子から車掌に断られた説が有力で、夫は手口からみて、ロンドンの爆破テロを真似ようとしたテロ未遂だったのではないか、と推測しています。犯人は現在、警察と抗争中の地元ギャング団「ムンギキ」説が有力だそうです。

ケニアティー 
 
 未だに、口からスルスルと英語が出てこない私ですが、じつは当地では長らく、イギリス人女性から英語の個人レッスンを受けています。 

 夫は「あなたの場合、英語だけじゃなくて、日本語も口からスルスル出ないよね」と憎まれ口を叩きますが、めげずに頑張っています。

 日本にいる頃には英語なんて縁のない生活でした。でも、ナイロビではお手伝いさんもいて、多少時間に余裕があります。 「これが英語が話せるようになる、人生で最後のチャンスかも」と思い、毎週1ー2回、90分間、勉強しています。 

 この先生は英語を教えるプロで、以前は国連などでも教えていました。 自分の生徒がどれだけ上達するか、ものすごく興味を持っていて、それぞれの生徒に合ったレッスンを心掛けてくれます。 その気迫が最初すこし怖いのですが、すぐに彼女の真剣さに気付き、こちらも頑張るようになりました。

 細かい発音の訂正や、気楽な会話に適した言い回しなど、本ではなかなかポイントがつかめない「生きた英語」に触れて、感動することすらあります。

 最初は授業中、彼女が何を言っているのか分かりませんでした。ところが、段々と何を話しているのか理解できるようになってきて、それが又、すごく嬉しかったりして励みにもなります。

 最近、彼女は「日本に帰っても、絶対、イギリス人の先生に英語を習うのよ」と言います。せっかく英国風の英語を覚えてきたところなのに、日本で米国人から英語を習うと「汚い英語」が身に着いてしまう、と心から心配しているみたいです。

 「階級社会の英国が大嫌いで私は国を出たの」というのが彼女の口癖なのに、不思議なもので、イギリス英語は自慢なのかもしれません。

 じつは私は最初、その2つの英語の違いが全然分かりませんでした。 最近すこし分かってきました。テレビでもイギリス英語は割合と聞き取りやすいのに、アメリカ英語だとチンプンカンプンだからです。 やっぱりイギリス英語に慣れてきたせいもあるみたいです。

 イギリス英語の優しく流れる音楽のようなトーンが好きです。耳に心地よい気がします。もちろん、人によっても違うのでしょうけれど…。

 先日、レッスンを離れて、先生と娘2人と一緒に、彼女がお勧めというナイロビ市内のお茶畑の近くへランチに出掛けました。 緑が美しいお茶畑に近づくと、海風のような塩の香りがしてきました。 すがすがしい空気に出会い、みんなで何度も深呼吸を繰り返しました。
ぷろふぃーる
HN:
ふっちんち
性別:
女性
自己紹介:
 ☆ 2012年1月3日 ☆
 ケニアからインドネシアへ、そして私達の母国、日本に戻ってきました。

◎当ブログの画像に関する著作権は    『南色日和 ポレポレふっちんちケニア生活』に属します。 

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私が貼り付けたものじゃないのですぅ・・・読みにくくて悲しい・・・
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